今日は久しぶりの遠出で、長いこと電車に乗っていました。
途中、4歳くらいの男の子が入ってきて、座席に窓向きに座って、ずっと外の景色を見ていました。 ただただ真っ直ぐ外を見ている姿が微笑ましく、子どもの頃はわたしも、ただただ世界を眺めていた、そんな時があったのかなぁ、と思いました。
お父さんが「レールだよ。」と話しかけると、男の子が「レール、いっちゃった。」と、かわいい一言。 くすっ
と微笑みが出ました。
その時、この間読んだ「時間」についての話を思い出し、こういうことかなと理解できた気がしました。 合っているかどうかは、分らないのですが。
(わたしたちは現在のところ、この世界・空間を3次元的に認識していて、時間については過去・現在・未来が一直線上にあるという1次元的な認識をしていますが、現実はその次元を超えていると言われています。)
その子には、「レールが行ってしまった」ように見えました。
自分が移動していることを子どもらしく忘れているし、まっすぐ(進行方向と垂直に)前だけ見ているので、視点はとても限定され、狭い視野になっていますから。
だから、その一瞬一瞬に見ているレールは無くなっていきます。
本には、「時間が過ぎ去って行くと認識しているが、実は、今のこの一瞬で無限である時間の中を、自分が移動している」みたいに書いてありました。
そのことを理解できずに、今という時間が毎瞬毎瞬過ぎ去り、「過去はもう行ってしまって取り戻せない。」し、「未来はまだ訪れていない。」と思っています。
それは、「自分の認識の仕方や身体の制限を超えられず、(電車の車両のように)限られた視点から見ているからだ。」とも書いてありました。
視野が拡大すれば、レール(過去)は前からずっと在って、これからも在り続けているのが分るでしょう。 移動して、同じレールのところへ行くこともできます。
先の方のレール(未来)も、まだ限られた視点からは見えてないだけで、最初から存在している。
今は横浜を通過しているけれど、レールの向こうに、北海道も九州も既にそこにある。
同じように、未来も今も過去も、同時に存在する。
さらにレール上以外にも、この大地の上には、ありとあらゆる行くことのできる場所がある。
その中には驚くほど美しく心地よい場所も在るし、そこそこの場所も、それほど魅力のない場所もあるでしょう。
美しい場所に行くことができた人もいるし、あるのは知っているけど訪れてない人もいる。 そんな場所があることすら知らずに、それほどいい感じでない同じような場所しか知らない人もいる。
同じように、ありとあらゆる未来が既に土地のようにあって、中には驚くほど美しく心地よい未来も在り、そこそこの未来も、それほど魅力的でない未来も既にある。
だとしたら、いろんな未来の中に、「
もうすてきな未来は存在しているから、そちらに向かって進もう!」と、確信して、進めばいいだけなのでは?
そんなことを思いながら藤野に着きました。
きれいな桜や梅や桃、山吹に菜の花、スミレやたけのこが出迎えてくれ、「いろいろ考えるのもいいけれど、この世界を味わうことも忘れないでね。」
そう言ってくれている気がしました。
その時は「わかった」ように思えたのですが、こうして文章にして伝えるというのは難しいですね〜